つひにゆく道

休職中の国語教師が教育・文学・音楽などについて語ります。料理と愛犬についても結構書きます。

カズオ・イシグロは「日本人」なのか

ボブディランの受賞や村上春樹が取れないことで、毎年話題に上がるノーベル文学賞ですが、先日、カズオ・イシグロさんが受賞しました。

 

「私を離さないで(Never let me go)」くらいしか読んだことはないけれども、とてもうれしい出来事でした。

 

しかし、そこで流れてくるニュースを見て、非常に強い違和感を抱いたのです。

テレビでも、ネットでも、彼は川端康成大江健三郎に次いで

 

「日本出身の作家として3人目の受賞」

 

と報じられていたのです。

 

確かに、彼は5歳のころまで日本で過ごし、初期の作品は「記憶の中にある日本」をテーマに書いています。そういう意味では、日本にゆかりのある作家が受賞したのはとても喜ばしいことです。

 

ただ、幼いころにイギリス国籍を取得し、ほとんど日本語をしゃべらず英語の世界で活動している彼を、いかにも「日本の作家」のように扱おうとする風潮に、少し危ないな、と感じるのです。

 

メディアの役割は、単に情報を発信するだけでなく、「権力の監視装置」でなくてはならないはずですが、こういうところを見ると日本はまだまだ右翼化傾向の強い国で、少し前に話題になった「言論の自由が脅かされている国」だと外国から指摘されてしまうのにも頷けます。

 

 独裁の恐ろしいところは、国民が「独裁の下で生活している」と感じないところです。普段は意識しないところに目を向けて考えてみると、それが見えてきます。

 

たとえば、「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」というごろ合わせは誰もが学習して記憶していることだと思いますが、この1192年というのは源頼朝征夷大将軍任命された年で、それを以て鎌倉幕府の成立と位置付けているのです。

 

しかしながら一方で、1185年という説もあり、これはそれまでの貴族社会とは一線を画す「守護・地頭の設置」という社会システムの実質の革新を以て鎌倉時代、つまり武士の時代の始まりだとするものも存在するのです。

 

では、なぜ前者がスタンダードとして扱われているのでしょう?それは、上に書いた「任命」の主語を考えれば言わずもがな、浮かび上がります。

 

歴史学が専門ではないので本当の詳しいところは分かりませんが、「思想は細部にこそ宿る」というのが現代思想の常識です。

 

僕は極端な左翼思想は嫌う人間なので、別にこれが悪いことだとは思いませんが、自分の中で相対化してきちんと考える姿勢はとても大事だと思います。

 

さて、話が逸れてしまいましたが、2年前に受賞したボブ・ディランの代表曲に、「Times they're changing」―時代は変わるーという歌があります。

 

黒人初の大統領が誕生してからたった8年で、「壁」を作ろうとする人が大統領になったりと、めぐるめく世界は変わっていきますが、

 

はたして、「日本」は変わったのでしょうか?

 

ディランの言うように、「The anser is blowin' in the wind.」―答えは風の中ーでは済まされないかもしれません。

 

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

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