つひにゆく道

休職中の国語教師が教育・文学・音楽などについて語ります。料理と愛犬についても結構書きます。

夏目漱石の「坊っちゃん」について、休職中の国語教師が語る

病み日記ばかり書いても気が滅入るので、本日は漱石の「坊っちゃん」について。

 

中一の教科書に第1章、生い立ちから卒業後の旅立ちの場面までが書かれています。

 

一般的に、破天荒な「おれ」と純粋な愛を注ぐ下女の「清」との絆の物語、という「美談」として語られています。

 

もちろんそれはその通りなのですが、授業の際にこれを読み取ったところで、それは国語ではなく「道徳」の授業でしかありません。

 

日本の国語教育が抱える問題は、そんな誰でも分かるようなことを、「先生がわざわざ何時間もかけて教えている」ということです。

 

教師が読むための理論や教えるための理論を知らず、自明なことを語り続けるので、生徒は分かりきったことを「ゆっくり丁寧に教えてもらう」のです。

 

だから退屈なのです。石原千秋氏や小森陽一氏もよく指摘しています。

 

教師と生徒のレベルがほぼ同じ、だから小説から読み取るものは道徳的な心情しかないのです。

 

 

ちょっと違う角度から見て見ますと、冒頭の「親譲りの無鉄砲で、子供の頃から損ばかりしている」という文があり、破天荒な子供として語られていますが、その後には二階から飛び降りて腰を抜かしたエピソードの次に、「なぜそんな無闇をしたのかと聞くものがあるかもしれぬ」と語られているのです。

 

ということは、この話の語り手は「常識をわきまえた大人」になった後の「おれ」だということが分かります。

 

その破天荒な「坊っちゃん」を「大人」に変えたできごとが、愛媛での教師生活なのです。

 

教科書には第1章しか載っていませんが、それが第2章以降に何度も顔を覗かせます。そのような観点で読んでみると、発見のある話に変わります。

 

 

僕の同僚は、一応「進学校」なのに、こんな話をしても誰も理解しません。問題の解き方しか教えられないのなら生徒と同じレベルです。

 

下手をすれば、国語の教師のくせに「坊っちゃん」を読んでいないのかもしれません。

 

あまり知られていませんが、「それなりの授業」は話すのが苦手でない人なら誰でもできます。今日使用の教科書には、解説、発問の例、テストや配布プリントのサンプルがついてきます。それさえあれば、誰でもできます。

 

でも、それはとても退屈なものになりやすい代物です。「勉強をしろ」と言う立場の教師が、勉強していないのが、この国の現状なのです。先生が勉強を嫌いなのです。

 

だからこそ、前の日記に書いたように、どーでもいい生活指導や雑務処理、部活動などに鼻息を荒くして張り切りながら、ごく僅かの勉強熱心な教師を追い込んでいくのです。

 

勉強の面白さは生徒としか共有できない、という嘆かわしい事態だからこそ、生徒のことが輝いて見えるのかもしれません。

 

 

坊っちゃん (新潮文庫)

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