お弁当日記
たまに載せていますが、休職中なので奥さんが仕事のある日にはお弁当を作っています。
しかし、先日ハロウィンの料理で載せたように、盛り付けのセンスが全くないので、初期の頃はこんな運動部の男子のようなお弁当を作っていました。
Twitterなどで、フォロワーの方にアドバイスをいただいたところ、黄色や緑や赤を入れるととても華やかになると言うことでした。さらに、今まで目に留めていなかったのですが、100円ショップのスーパーにも簡単な盛り付けグッズがたくさん売られていました。そうすると少しは見られるように。こちら。
こーゆーのって、自分が必要な状態にならないとなかなか気がつかないものですよね。ということで、第二段階がこんなものを作ってみました。
少しは進歩したと思います。
しかし、冷凍食品に頼ると、揚げ物やひき肉の煮物が多いので、どうしても色が暗くなります。そこで今回は、冷凍食品は一切使わず全て自分で作ってみました。それがこちらです。
少しは進歩したでしょうか。感想やアドバイスなどいただけるとうれしいです。しかし、それにしてもゆっくり料理ができるというのはとてもいいですね。お弁当作りと言うのはなかなかに楽しいものです。これは仕事に復帰しても続けてもいいかなと思います。
簡単なキャラ弁とか是非教えてください。
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「分かりやすい」授業
評価の高い先生の授業は、一般的に「わかりやすい」授業として紹介されます。もちろんわかりにくい授業よりも「わかりやすい」授業の方が良いのは当然です。
しかし、この「分かりやすい」という言葉について深く考えてみると、危険な落とし穴が見えてくるのです。
この「分かりやすい」と言う言葉は、あまりにも一般的になりすぎたため、生徒はとても広い意味でこの言葉を使います。しかし、一般的な意味での「わかりやすい」、つまり明快であるということは、決して技量が高いという評価ではなく、授業の最低ラインであるのは言うまでもないことです。
学問と言うのは、深遠で魅力的なものです。陳腐な言い方かもしれませんが、わからないからこそ面白いのです。しかし、全くわからないことばかり学んでいくと言うのは、あまりにも生徒にとって負荷が大きすぎます。
ですから、よく考えなければわからないけれども、よく考えれば少しずつわかるようになるというのが本来の魅力的な授業であるはずです。
また、中学生や高校生の生徒のレベルでは、知っているはずのないようなこともありますから、教科書に載っているような話題であっても、専門的な知識がないとわからないようなことを教えてやるのが、教師の本来の役割の1つであるはずです。
「眼光紙背に徹す」という言葉がありますが、教師は書かれた文字の裏側にある、壮大な背景まで読めていなくてはいけないのです。いけないというより、そうでなくてはつまらないのです。
しかし、まず世の中には授業力のない教員が多すぎます。皆さんも経験があるでしょうが、何を言ってるのかさっぱりわからない、仮にそれなりのレベルの話をしていたとしても、この人の授業はあまりにもつまらなくて全く聞く気が起きない、そのような授業をよく目にしてきたはずです。むしろ、面白い授業よりも、このような授業の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。
そのため、ただ教科書に載っているだけのことを、簡潔で「わかりやすく」説明するだけで良い授業と評価されてしまうようです。塾やn流「進学校」のエース講師などはこの傾向があります。今では、予備校のエース講師はそのような低レベルな授業をしていません。
ですから、教員がこのような授業を学校でしていては、予備校のほうがレベルが上だと思われても仕方がありません。現に、ほとんどの生徒は、「学生の頃塾の先生をやっていた」というと、「すげー」という反応をします。学校の教師はなめられているのではなく、本当に下なのです。
そしてこの、「分かりやすさ」をもう少し具体的に見てみると、「噛み砕く」と言う言葉がよく使われます。「噛み砕いてわかりやすく」という言葉はよく聞きますね。
しかし、この「噛み砕く」と言う言葉はとても厄介なものです。なぜなら、学習する内容にはとても深い背景があったり、実は非常に難解なものも多いのが事実です。ですから、その理解を目指すためには、そのようなものを切り捨てることがなかなか難しく、ましてや、それを凝縮して話すならば相当に難しいことです。
しかし、このような内容は優秀な教師にとっても難しいのですから、低レベルの教師は知らない・理解できないどころか、「そのような世界が存在するということすら予想できない」と言うことが実は往々にしてあるのです。
では、そのような教師が授業する際には何を行うのでしょうか?
噛み砕くのではなく、切り捨てるのです。
初めから難しい部分は話さず、簡単な部分だけを話すのです。
そして、本来ならば、生徒の知的好奇心を刺激するような魅力的な内容には触れず、自明なことだけを語り続けるのです。
初めから分かって当然のことしか話さなければ、「分かりやすい」のは当然です。教科書に載っていることを表面的な解説しかしなければ、優秀な生徒は、自分で教科書見ればわかりますから、授業を聞く気もしません。
一方で、好奇心を刺激されないのですから、勉強が苦手な子や勉強が嫌いな子は、いつまでたっても興味がわかず、を勉強つまらないものだと思い続けてしまうのです。
現に、本屋さんに行って「月刊国語教育」などの教育関係の雑誌を読んでみると、「授業実践」と称してこの程度のレベルのものを紹介している代物がとても多く見受けられます。これは確かに、やり方は新しいかもしれませんが、内容的にはごまかしに過ぎないのです。これはもはや授業ではなく、ゲームです。学問に対しての興味など湧いてくるはずもありません。
自分の時間を犠牲にして、授業研究に声を出している人ですがこのような有様なのです。さらに、公立の学校の多くを占める地方国立大学教育学部ですが、彼らを指導する先生たちも、所詮は大したレベルの大学ではありませんから、あまり研究者として優れていない人が多いです。ただ、就職なんかできそうにもない人が傷をなめあうために、大学院に残って研究続けていた、という程度の輩たちが、運良く就職口を見つけて、無意味な論文を書き続けている、というのが9割です。
ですから、このようなゲームのようなレベルのものを「革新的な授業」と称して教え、大したレベルではない学生たちが、大したレベルではない教員となっていくのです。そして彼らに指導を受けた生徒たちは、教師に対して憧れなど抱くはずもありませんから、優秀な人は教員を目指す事は無いのです。
こういった現場が一般的で、それなりに学識のある人が教員となっても、周囲の人々に阻害され楽しい授業をすることがどんどんどんどん難しくなっていくのです。相当に強固な負のスパイラルが頑丈にできあがっているのです。
実際に、大学生の方は教職の授業をのぞいてみてください。人前でオナニーしあうのが好きな変態たちが主導権を握っています。「あの空気」がいやすぎて、「教職辞めた」という人はたくさんいます。
本来、学問と言うのは万人に平等なものです。ですから、生徒が先生の言うことにケチをつけたり、異議を唱えたりしても構わないのです。むしろそれを好機と捉え、やる気を失わせない上手な反論や、まだ生徒が見えていない点を教えてあげることによって、対話的で魅力的な授業が出来上がっていくのです。
そのような素養を持たない人間が、活動的な事業、いわゆるアクティブ・ラーニングを実践してみたところで、「生徒が話をしてもよい形での自習」に成り下がるのです。
学問に関して言えば、生徒と先生の力関係と言うのは、校則や権力の後ろ盾に保障されたものではなく、普段の指導の中で、自分よりも教師の方が上なのだということを生徒自身が自覚することで成り立つものです。
実際に、僕は自分の在籍していた中学校の授業を受けて、先生たちが自分より頭が良いと思った事は1度もありません。若気の至りでそう思っていたのではなく、それなりに教育的知識を手にした今でも全く変わらずそう思っています。
自分と同じレベル、下手をすれば、自分より知識や教養で劣った人間に教わると言うことほど不幸な事はありません。そのような人間が、「勉強しなさい」と言ったところで、誰が勉強する気になるでしょう。「勉強した結果、あんたみたいなるならやらねーよ」と思われてしまうのではないでしょうか。
現在では、細かくルールを決めて、「しつけ」をする教育がメジャーになっています。もちろん教育に「しつけ」は不可欠ですが、動くのは生徒自身です。「やらされる」というのは意識であって、行動の実態ではありません。
「しつけ」によって達成されることは、これをすると怒られるからやってはいけない、という類のものであり、法律を守るなどといった場面についてのみ有効な教育なのです。
勉強してみよう、スポーツを楽しむ、友達を大切にしよう、などなどこういった類の事はしつけではなく、「感化」によってもたらされるものです。
先生の授業受けて、勉強でとても好きになった。面白いと思えるようになった。その分野についてより興味がわいた。自ら学んでみようと思いそして実際に学んだ。ここまで達成できてこそ、授業と言うのは真に実があるものになったと思うのです。
なかなか理論化・数値化できるものではありませんが、生徒がどれだけ感化によって動いているかという指針で測りなおすと、現在「いい先生」だと思われている人のほとんどは、「詐欺師」に見えてくるかもしれません。
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教育無償化と教員の働き方改革
今ニュースなどで高等教育無償化や教員の働き方改革が報じられています。
そこで、今日はこの問題について考えてみたいと思います。僕にはこの議論は不毛で、非常にズレているように感じるのです。
1.教育無償化について
2.働き方改革について
3.まとめ
1.教育無償化について
まず、教育無償化についてですが、これは幼児教育から高等教育まで幅広く議論されていますので、とりあえずは私の関わっている「高校」の無償化について考えたいと思います。
ニュースではいかにも中等・高等教育には金がかかる、というように言われていますが、すでに県立高校では収入に応じて給付金が払われるので、低収入世帯には無償化が実現されています。
そして、さらに多くの私立高校では特に進学校や進学コースにおいて、またスポーツなどの分野においても、優秀な子には特待コースが用意され、無償化や又は半額免除等の奨学金が支給されています。
つまり、収入が低い世帯の子や、優秀な子に対してはある程度お金がなくても質の高い教育を受ける制度はそれなりに整っているのです。もちろんアメリカや欧米諸国と比べれば足りない面もたくさんありますが。
「塾や予備校に行く」ことが前提なのでしょうか。今は問題集・参考書もずいぶん充実していて、「進学校」では結局それを使って授業をしています。自分で勉強すればいいのではないでしょうか。
では、これで無償化が実現した場合、いったいその恩恵を受けるのはどういった子なのでしょうか。
こういった現状である以上は、結局のところ、やる気のないものや学力の低いものが得をするのではないでしょうか。確かに、多くの人間が教育を受けられると言うのはメリットがあるように感じますが、日本の学生はさほど勉強に意欲的ではないものがほとんどです。これに対して国がフォローする必要はあるのでしょうか。
普段授業をしていて感じることですが、寝ている者や勉強しないものが多いと、当然全体のモチベーションが下がります。
日本は、やる気のないものや学力の低いものを伸ばすのが教師の役割だと言う悪しき通念がありますから、これを何とかさせようと努力します。「やる気」とは何か、深く考えたことはあるのでしょうかね。
しかし、それは、本来国を挙げて投資すべき、能力の高い子ややる気のある子を見捨てているのと同じことなのです。
これは税金の無駄遣いと言うしかありません。日本の将来を考えると、これはとても危険な事態だと言わざるを得ません。
とは言え、現代においては、高校は実質的に義務教育と化していますから、これに門戸を開くのはそれほど悪いことでは無いかもしれません。いくら学力が低いからといって中卒でみんな働かせるわけにはいかないでしょう。
しかし問題は、高等教育である、大学にまでそれを広げてしまって良いのかという点です。
これを言うと批判にさらされることも多いのですが、僕はざっくりと、偏差値50以下の大学は世の中に必要ないと思っています。なぜボーダーフリーの大学に高い金を出して入るのか?突き詰めれば、「働きたくないだけ」だと思うのですが。
偏差値だけでくくれるわけではありませんが、日本の大学生はあまり勉強せず、就職する前のモラトリアムとしての時間を過ごしていることが多いです。
そしてさらに、日本の大学教員の質も非常に低く、授業もほとんど成立しないものが多いので、勉強したい大学生にとっては、授業以外の場所に、例えば研究会などに活路を乱す人が多いのです。先程の例と同じように、きちんと勉強したい学生にとってはモチベーションを下げられる要因が多すぎるのです。
ですから、現代において大学を卒業したと言うのは、就職活動の入り口の切符を掴むと言うだけで、教育機関として機能していない面が多いのです。教育学部でやっている授業を見ればわかります。採用試験の予備校になっているか、現実とかけ離れたゲームのような授業をやっているだけです。
そして、いま日本は高齢化社会に悩まされています。これから少子化のあおりを受けてどんどん子供の人口が減ってきます。生産人口も減っているので、多くの企業などでは人手不足に悩まされています。
それだったら、当たり前のように皆が大学に行く社会ではなく、高校卒業した後に働いて、優秀な一部のものが大学に行くような社会を作ればいいと思うんです。いま、欧米諸国でも少子化によって、大学はかつてのエリート教育の機能が失われ、モラトリアムになりつつあります。
かつての欧米の大学のように、学力の高いものにはきちんとフォローしてそれで大学に生かせればいいと思うのです。皆が大学に行く必要などありません。
2.働き方改革について
そしてさらに働き方改革についてですが、率直に言って、今なされている議論はほとんどが不毛なものです。「学校」というシステムが変わらない限り、少し小細工をしたところで抜本的な改革にはなるはずがないからです。そして確かに忙しすぎる、業務量が多すぎると言うこともありますが、それよりも多くの教員を悩ませるのはストレスなのです。そして無駄な仕事ばかりしていると言う徒労感なのです。
この現場に対してとるべきは、
①教員ではなくて事務職員を増やす
②保護者にビクビクせず、夜遅くまでの指導の要求や、理不尽なクレームに対しては上がきちんと反論し寄せ付けないようにする。
③コンサルタントなどを利用し人事にメスを入れる
これについてもう少し詳しく説明していきたいと思います。
①について、以前から言われていることでありますが、日本の教員は忙しすぎます。勉強を教えるのはもちろんのこと、生徒のケア、様々な雑務つまり事務作業、スポーツのコーチ、等々免許がなくてもできる仕事が多すぎるのです。
この状況に対して教員を増やしたところで、現場が混乱するのは目に見えていますし、単純に人を増やしただけでは解決できない問題が多すぎるのです。教員を増やしたところで10年後には子供が減ってリストラの議論が出てくるのがオチです。
現在の学校の事務職員は、会計の管理など学校全体の業務を担当していて、それだけで一般職とは思えない位の忙しさになっています。ならば、事務職員を増やして、教員が事務作業に追われないようにするシステムを作るべきだと考えています。
例えば出欠の管理、遠足や修学旅行の準備、PTA総会等の準備上は教員でなくてもできるはずです。事務職員が増えれば雑務処理などの負担はかなり軽減されると思います。先見の明がある学校ではこれらはすでに自動化・外部委託されています。
②についてですが、20年から30年位前の先生の姿を思い出していただければわかると思いますが、昔の先生はとても楽でした。そしてその質の低い教員が高い賃金で楽をしすぎる現場に対して、批判の声が上がってきて、どんどん教員の業務が増えていき、モンスターペアレンツなどという言葉もその頃に誕生しました。
確かに、かつての無能な給料泥棒のような教員は許せない存在だと思いますが、しかし一方で、きちんと空いた時間があり余裕があるからこそ、授業の準備や自己研鑽に励むこと、部活動の指導にしっかりと励むこと、などができたのです。
これらは当然、現代においても大切なことですが、こういったことに時間をさけない現状が問題なのです。ここまでしなくても良いのではないか、まるで「子守り」のようになっていないか、教員が「メイド」のようになっていないかと感じるまでに面倒見の良い状態が生まれています。
これは、子供だからと言う理由で生徒には何も責任を負わせない(つまり、人間として認めていない)、そして上の人間が保護者に平身低頭でビクビクしていることから発するものも多いと思います。
担任の教師や、管理職等が理不尽な保護者に対して強く出たところで、教育委員会や文部科学省またメディアなどにその問題が取り上げられれば、自分の学校だけでは手の届かないところで大騒ぎになってしまいます。(余談ですが、教育実習生に対して「保護者からクレームが来るから生徒を叱らないでくれ」なんて「指導」をする学校も結構あります)
まぁ、基本的に現場を捨てた人間や現場では活躍できないような、どうしようもない人たちが上に立つのが現状ですから、ある程度は仕方ないことなのですが、文部科学省や教育委員会がきちんとわけのわからない保護者を突っぱねられようになれば、われわれはビクビクせずに気持ちよく働くことができるのです。
その上で、怠惰な教員や体罰を行う教員など、問題のある教員に対して処分はきちんとすればさほど不満もたまらないと思います。
さらに③についてですが、学校教育の現場には人事のプロが存在しません。せいぜい、最近台頭している公立の中高一環後に能力の高い教員を回そうとしているというくらいです。だから、ろくな形での評価はされず、「内輪」で進んでいきます。
そしてよく言われてることですが、学校と言うのはみんなで「平等」に進めていくと言う暗黙の了解がありますから、みんなが仕事を持つことになります。だから何も決まらず、何も進みません。そして無能な人間は、全然仕事が進まず、結局は能力のある教員のもとに雑務がどんどんどんどん回されていくのです。
そのため、本来は授業や部活動などでパフォーマンスを発揮するべき教員が、雑務の処理に追われ、それでも授業や部活動などに精を出すとどんどん疲弊していくシステムが生まれています。
その一方で、やる気のない人間は涼しい顔して早い時間に家に帰って行きます。そういう人は生徒からも全く相手にされませんから、生徒の面倒も忙しい先生が見る羽目になるのです。
これに対してはコンサルタント等の外部の機関を利用し、人事にメスを入れるべきです。指導力の高い教員は授業などにある程度専念できるように、そして、質の低い教員は、事務職員のように雑務をどんどん担当させればいいと思うのです。全員の負担を軽くする必要はありません。働く人の負担を減らし、怠ける人の負担を増やせばいいのです。
生徒以下の学力の者に授業を多く持たせたり、嫌々すわって偉そうに能弁垂れているだけの人に部活動を持たせたりする必要はありません。生徒が恩恵を受けられるような形で改革を進めるべきだと思っています。
3.まとめ
結局のところ、「みんなが平等に」と言う、「平等性」と言う言葉を左翼的な解釈で履き違えた価値観から、様々な問題が生まれているのです。
学校教育は家庭教育とは違います。わが子に無償の愛を注ぐのではなく、国としての国家100年の戦略が求められるものです。
下ばかりを見て上を見捨てるのではなく、国や組織として、人手を使うべきところにきちんとお金とマンパワーを使っていけば、それなりに働きやすくなると思います。そして子供たちが、恩恵を受けられる社会へと変わっていくでしょう。
タイムカードとか免許更新とか残業代がどうとか、何の意味もないですよ。
[追記]ゆったりした1日。
仕事で死んでた時は、家のことなんかほとんどやる暇はなかった。せいぜい日曜日の部活の後くらいかな。
僕は無類のビール党なので、この期間、何もしないと酒浸りになるのが目に見えている。その対策として(?)家事全般は僕が担当することを申し出た。元々家事は好きだし、上手く時間を使って家を綺麗にしたり、ご飯のメニューを考えるのがとても楽しいし、奥さんもとても喜んでくれる。
欠かさず作るのは、奥さんが早番の日のお弁当と、後は、晩御飯。たまにはお菓子でも作るかと思い、冷凍のパイシートを買って来て、アップルパイに挑戦しました。
パイシートにつくり方書いてありますが、肩の上にパイ生地を伸ばして敷いて、その上に砂糖で煮て水分飛ばしたリンゴを乗せ、さらに細く切ったパイ生地を格子状にかぶせ、残った生地を型のふちに乗せて、180℃で35分くらい焼けば終わり。誰でもできる。
そして犬の散歩に行くと、僕の街では有名な鳥、コクチョウの雛が孵っていました。写真ではあまりわかりませんが、お腹のとこにいる白いやつ。
もうこの街に8年近く住んでいるのに、コクチョウの雛なんて初めて見たし、そもそもこの時期に生まれることも知らなかった。
自分も奥さんも2匹の犬も、家族を大切にできる、のんびりした時間でした。あの忙しさじゃこんなことできないなあ。この国では、家族を見捨てて他人の子の相手をボランティアでするのが、教師の使命だと思うと切ないですね。
[追記]
たった2日で、こんなに大きくなっていました。鳥はすごい。犬よりさらに成長早い。
学校内の「治安維持法」について
「学校は退屈だ」などというと、尾崎豊みたいでダサいかも知れません。しかし一方で、たくさんの思い出や、すばらしい友や師と出会ったという経験も多くの人にはあるでしょう。
しかし、それは「学校」のおかげでしょうか?友達や先生個人のおかげのものがほとんどではないでしょうか。
今日はその「学校」という特異なシステムについて、「治安維持法」という言葉を使って考えてみたいと思います。
1.治安維持法とその背景について
小林多喜二という作家をご存じだろうか。彼の書いた「蟹工船」はブラック企業がはびこる現代、再びブームとなった。「蟹工船」はあまりにも有名だが、「党生活者」という小説もあり、彼はこれを書いた数日後、治安維持法で捕まり、リンチにかけられ殺された。
この「治安維持法」という法律は、明治時代、普通選挙法と共に作られた法律だ。これを中学校の歴史では、
「平等な社会を作ったと見せかけて、実は都合のいいように取り締まれるようにしたんだよ」
などと教える。断言するが、こういう教え方をする奴からは何も学ぶことはない。
当時、世界はイギリスで起こった産業革命に端を発し、資本主義・軍国主義・国民国家の新しい世の中へ舵を切り、日本もそれを追随する形で近代化を進めていった。世界がそうした方向に向かっていく中で、差別・貧富の差・労働者からの重い搾取などなど、種々の問題が見えるようになってきた。
思想家・経済学者のカール・マルクスはその様を眺め、
「(資本主義という)化け物がヨーロッパ中を徘徊している」
という書き出しで斬る、「共産党宣言」を執筆し、共産主義の世の中を目指した。その「共産主義」を取り締まるための法律が、「治安維持法」の一番の役割なのだ。(余談ですが、僕の勤務校には文系の先生でも「共産党宣言」を読んだという人はほとんどいません。100ページもない本なのに、情けない。)
そして世界は、「資本主義」と「共産主義」という大きな柱の下に、二度の世界大戦が起こり、仮想的な第三次世界大戦、つまり冷戦の終結を以て、前者の圧倒的な勝利が告げられる。それは、「ソ連」という国そのものが潰れてしまうという悲劇的な終焉であった。
理屈っぽく書いてしまったが、上の文章を読んでいただくと、社会や国語で習ったいくつもの単語が出てくるのに気づくでしょう。しかし、この「共産主義」に関する話は、一種の「タブー」となっているため、学校内で語られることはあまりない。
中学校3年生の国語で、魯迅の「故郷」という話を習うが、教師用指導書(先生用の解説書・資料集みたいなもの)には、「歴史的背景はあまり話さないように」と注意書きまでつけられている。
彼は共産主義革命を目指し、のちに毛沢東から「大先生」と崇められた人物であり、文学革命を達成し、あの小説を書いたのだが、それに触れることができなければ、結局小学校と同じような授業(心情と「成長」しか語らない授業)しかできない。しかも小説としての完成度はそれほど高くはないので、下手をすれば「ごんぎつね」等の方がよっぽどよい授業になるかもしれない。
2.学校内における「治安維持法」
なぜこのようなことが起こるのか。一般的な教員や地方国立大(「駅弁大学」)の教育学部の人たちは、教養のない人がほとんどです。「それよりも、教え方の方が大切だ」などと言い出します。知識を得るとアイディアが出なくなるという危険な思い込み。最近では、生徒が主体的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」の流行によって、そのレベルの先生は存在価値がなくなろうとしています。
僕の職場の後輩たちには、大学できちんと学び、学問を愛する教師が何人かいます。そして彼らは、僕が若いころに受けた仕打ちを繰り返されています。端的に言えば、「そんな難しいことやらなくていいよ」と言われ続けることです。僕が授業を見に行った限りでは、とてもよい授業を展開しているし、生徒のウケもなかなかです。
つまり、彼ら無知な教員には、よい授業を見ても、その「よさ」が分からないのです。
往々にして、教員が「(生徒にとって)難しい」というときは、実は「(自分にとって)難しい」のです。だから、本当に価値のある話題を避け、自明なことを語り続ける授業が展開されるのです。
しかし、それにも利点はあります。一言でいえば、
バカでも授業ができる・ずっと同じことができる
という2点です。能力の低い生徒を助けよう、というならまだ分かりますが、能力の低い教員に合わせることに何のメリットがあるのでしょう。だからバカでも「生活指導」に精を出したり、保護者にヘコヘコしたり、部活動で怒鳴っていたりすれば一人前の教員のように見えてしまうのです。よほど荒れた学校や、極端に学力の低い学校ならば事情は別ですが、
まともな学校ならば、授業に魅力があれば、生活指導なんてほとんど必要ありません。ホームルームでいかにも人生を悟ったかのようにして綺麗事を語る必要はありません。そんなことをしなくても勝手に関係は出来上がります。授業ができない教員がそんなことを語っても場はどんどん白けていくだけで逆効果です。
しかし、それをやるだけの人材はいないし、何より学問を捨てた人間がどんどん出世していき、出世すれば授業ができなくなる(やらなくて済む)のが「学校」といシステムですから、ゴミも積もれば山となる、それがスタンダードとして強制されていくのです。
「学校」を支える価値観をいくつか並べてみましょう。たとえば、
・「できない子」「やるきのない子」を伸ばすのが「いい先生」だ
→上を見捨てている。
・「できる」子は教えなくても「できる」
→生徒の方が上なだけ。
・大切なことはみんなで決めて、みんなで守る
→決まるはずもない。派閥や造反を生む。
・塾じゃないから難しいことはやらない
→簡単な問題の中にある難しいテーマを読めていないだけ。
・勉強より大切なことがいくらでもある
→問題のすり替え。勉強しなくていいわけではない。
・連帯責任
→罪を犯した者が得をする、もしくは必要以上の罰を受ける。
・みんな同じでみんないい
→個性の搾取。
・挙手による多数決
→バイアスがかかった中での議決。
などなど。これらは、どう見ても社会のシステムから逸脱していることは明白で、これでは組織としての成長などあり得ません。100人で何時間も会議をして、仕事ができるものもできないものも同じ給料で、みんなで地味な服を着て、仕事の優先順位は逆になり、やる気と能力がある「上」を見捨てて見込みのないところにエネルギーを注ぎ続ける。腐敗した組織です。
この「治安」を「維持」することが、無能な教員が時代から取り残されても幸せに生活し続けるための、「学校」における「治安維持法」なのです。
3.行きつく先は時代が教えてくれている
これまでに書いてきたシステムは、現代のものとは全く違う、100年前の原初的な共産主義によく似ているのです。上に書いたように、ソ連は国ごとなくなりました。学校で教わることは、実社会では役に立たないと昔から言われていますが、それは見方を変えれば「数年後には学校ごとなくなっている」ということです。
教育は国家100年の計、という言葉がありますが、未来を支える子どもたちが9年~12年間過ごす場所は、今の日本にも世界にも全くそぐわない、強烈な左翼思想に支えられているのです。
時代を知ってほしい。先見の明を持ってほしい。いや、そんなことしなくていいから黙っててほしい。
こんなシステムである以上、昨日もニュースで教員の「働き方改革」がうんちゃらとか言っていましたが、はたして彼らは楽になった分の時間を生徒に還元できるのか?はなはだ疑問です。
「平等」という概念が誤解されていると思います。「平等」とはチャンスの平等であって、ゴールの平等であるはずがありません。
全員で何かをすれば、自己責任の下で何らかの差は生まれてしまうものだ、ということを受け入れない限り、無駄な仕事が増えていく予感しかしません。
カズオ・イシグロは「日本人」なのか
ボブディランの受賞や村上春樹が取れないことで、毎年話題に上がるノーベル文学賞ですが、先日、カズオ・イシグロさんが受賞しました。
「私を離さないで(Never let me go)」くらいしか読んだことはないけれども、とてもうれしい出来事でした。
しかし、そこで流れてくるニュースを見て、非常に強い違和感を抱いたのです。
「日本出身の作家として3人目の受賞」
と報じられていたのです。
確かに、彼は5歳のころまで日本で過ごし、初期の作品は「記憶の中にある日本」をテーマに書いています。そういう意味では、日本にゆかりのある作家が受賞したのはとても喜ばしいことです。
ただ、幼いころにイギリス国籍を取得し、ほとんど日本語をしゃべらず英語の世界で活動している彼を、いかにも「日本の作家」のように扱おうとする風潮に、少し危ないな、と感じるのです。
メディアの役割は、単に情報を発信するだけでなく、「権力の監視装置」でなくてはならないはずですが、こういうところを見ると日本はまだまだ右翼化傾向の強い国で、少し前に話題になった「言論の自由が脅かされている国」だと外国から指摘されてしまうのにも頷けます。
独裁の恐ろしいところは、国民が「独裁の下で生活している」と感じないところです。普段は意識しないところに目を向けて考えてみると、それが見えてきます。
たとえば、「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」というごろ合わせは誰もが学習して記憶していることだと思いますが、この1192年というのは源頼朝が征夷大将軍任命された年で、それを以て鎌倉幕府の成立と位置付けているのです。
しかしながら一方で、1185年という説もあり、これはそれまでの貴族社会とは一線を画す「守護・地頭の設置」という社会システムの実質の革新を以て鎌倉時代、つまり武士の時代の始まりだとするものも存在するのです。
では、なぜ前者がスタンダードとして扱われているのでしょう?それは、上に書いた「任命」の主語を考えれば言わずもがな、浮かび上がります。
歴史学が専門ではないので本当の詳しいところは分かりませんが、「思想は細部にこそ宿る」というのが現代思想の常識です。
僕は極端な左翼思想は嫌う人間なので、別にこれが悪いことだとは思いませんが、自分の中で相対化してきちんと考える姿勢はとても大事だと思います。
さて、話が逸れてしまいましたが、2年前に受賞したボブ・ディランの代表曲に、「Times they're changing」―時代は変わるーという歌があります。
黒人初の大統領が誕生してからたった8年で、「壁」を作ろうとする人が大統領になったりと、めぐるめく世界は変わっていきますが、
はたして、「日本」は変わったのでしょうか?
ディランの言うように、「The anser is blowin' in the wind.」―答えは風の中ーでは済まされないかもしれません。
教員の過剰労働の前提
最近は、教員の労働環境が酷すぎる!というのが「ネットの」ニュースなどでよく取り上げられています。代表格は、内田良さんなどでしょう。
でも、それらでは語られていない前提があると思うので、今日はそれについて書きます。
突飛な話に聞こえるかもしれませんが、タモリさんがスーパーでネギを買っていたら皆さんはどう思いますか?
きっと、違和感があると思います。なぜなら、彼は「テレビの中のキャラクター」として一般的に認識されていて、あまり現実世界の人間だという当たり前のことが意識されないからです。テレビなどで料理上手な場面をよく見るのにもかかわらず、です。
(あんなすごい才能の持ち主と比較するのは不遜だと分かっていますが)教員も、それと似たような扱いなのだと思います。「学校」という現実から隔離された空間に存在するキャラクターなのです。
だから生徒は、お店で先生を見つけたり、友達や恋人とあっているところなどを見つけると、めちゃめちゃ盛り上がります。
つまり、人間として扱われていないのです。
普通の人なら、日曜日を奪われたら、毎日12時間以上働いたら、免許がなくてもできる仕事ばかりでストレスを溜めたら、しかもそれが全てボランティアでやることを強制されたら、その人の身体や家庭がどうなるかは分かるでしょう。
我が子のためとはいえ、お国のためとはいえ、「先生、よろしくお願いします」とは言えなくなるはずです。
これが、アホみたいにどんどん教員の負担を重くできてしまう社会のシステムや価値観なのだと考えています。
はっきり言って、それを本当にちゃんとこなせる人はごくわずかです。部活動をやりたくてやっている人もそんなに多くはないです。さらに、基本的に平均的な教員の学力レベルはかなり低く、専門知識や一般教養も乏しく、勉強が嫌いな人が大半なので、部活などの「免許と関係ない仕事」に居場所を見出すようになるのです。
しかし、普通なら身体を壊す量の仕事を、やりたくてやっている人は結構いるのです。そして、目立つのです。そして彼らは往々にして、人間がやる量ではない仕事を、「教員としての最低限」だとでかい声で触れ回すのです。
教員としての最低限は、生徒が知らない大学以上の学問的素養だと思うのですが、ほとんどの教員はそんなもの持っていない、持っていても活かせていないので、あまりもんだいになりません。
僕は30過ぎた今でも高校生と互角にプレーして、放送されているNBAとBリーグの試合は全て見る、というほどのバスケ狂なので、日曜日にバスケをするのは当たり前のことでした。
部活も「好きでやっている」と公言してました。勉強も研究会も、すべて「やりたくてやっている」と自覚してます。
でも、身体(というより精神?)を壊して、人間にはそんなことできないんだよ、と教えてもらった気がします。
いかがでしょう、皆さんは先生を現実に存在する人間だと思って扱っていましたか?
教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)
- 作者: 内田良
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2015/06/17
- メディア: 新書
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