つひにゆく道

休職中の国語教師が教育・文学・音楽などについて語ります。料理と愛犬についても結構書きます。

うつ病の箱庭(村上龍「コインロッカー・ベイビーズ)

少し間が空いてしまいましたが、読書レビューを教育に絡めて。

 

友人の勧めで、久々に村上龍を読みました。彼の代表作、「コインロッカー・ベイビーズ」です。

 

タバコ、セックス、酒、ドラッグ。80年代アメリカを彷彿とさせる、初期作品から得意のテーマです。パラレルでありつつ、絶妙にかみ合いもする、構成の妙。実力派の作品です。

 

本文のメイン・テーマとはあまり関係がないのですが、彼は作中で、

 

「老人ホームと刑務所は、そこに入る者を軽いうつ病の状態にして、円満に生活を送らせる」

 

という辛辣な批評を展開しています。反発したくなるけれども真理。

 

そして、ああ、そういうことかと妙に腑に落ちると同時に、脱力感に苛まれました。なぜなら、

 

それは、学校空間も全く同じ

 

だからです。特に僕が勤務していたような「勉強だけ」やらせるn流「進学校」です。(※ n≧2)

 

無意味なルールに包まれていることは、すでに他の記事で書きましたが、指導する側の僕も、「なぜこの子たちはこんなものに従うのだろう」と感じることが多かったのです。

 

別に反抗したってすぐに退学になるわけでもない、出席日数に関係ない課外授業や外部テストなど欠席して遊びに行っても特にお咎めはないものが沢山あります。たまには教師を出し抜いて派手にやらかしてくれても、大勢でやればさほどの罰は受けることもない(それを、村上龍は「69――SIXTY NINE――」という小説で表現しています)。

 

たぶん、もう彼らは「どうせダメなんだ、言うことを聞くしかないんだ、反抗すればとてもマズイことになるんだ」と信じ込み、何もしたくないという無気力感に覆われているのだと思います。

 

つまらない勉強をしたくないのに、最低限の勉強をする。やらなくても怒られないのに、自分のためにならないのに、やったふりをする。

 

そういう形で、ある種の神経症的な「症状」として出ているのだと思います。実際、市内の行事や部活動の大会などで会う公立中の生徒たちと比べてみると、学力や能力の差よりも、その「無気力感」が目立ちます。普段はそれが当たり前の空間なので特に意識はしませんが。

 

まともな頭をした教員ならば、赴任当初は、「学校」という空間に違和感が連続する日々が続くと思いますが、そんなことを考え続けて、独りで抵抗し続けていたら身が持ちません。実際、僕は持たなかったからこうしているわけです。

 

つまり、

 

生徒も教師も「考えなくなる」とい軽いうつ状態を作り出す場所が、「進学校」なのです。

 

それに気づいたとき、なんという場所で働いていたのだろうと、恐ろしくなりました。そして、その片棒を担いでいたことにも。

 

少し悪く考えすぎかもしれませんが、不登校体罰・休職教員・部活動のなど無給の過剰労働などなど、ほかの場所ではありえない問題が蔓延していること頷けます。

 

でも、生徒と国語が大好きなので、教師の仕事は続けたいのです。どこか、まともな学校が僕を拾ってくれればよいのですが。

 

話の主題が学校の方になってしまいましたが、村上龍さんが描く荒廃した「日本」は、一歩間違えば「そちら側」かもしれない、もう既にそんな世界が出来上がっているのかも、と戦慄させるような世界です。

 

救いや祈りはあるのでしょうか。

 

 

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

 

 

夏目漱石の「坊っちゃん」について、休職中の国語教師が語る

病み日記ばかり書いても気が滅入るので、本日は漱石の「坊っちゃん」について。

 

中一の教科書に第1章、生い立ちから卒業後の旅立ちの場面までが書かれています。

 

一般的に、破天荒な「おれ」と純粋な愛を注ぐ下女の「清」との絆の物語、という「美談」として語られています。

 

もちろんそれはその通りなのですが、授業の際にこれを読み取ったところで、それは国語ではなく「道徳」の授業でしかありません。

 

日本の国語教育が抱える問題は、そんな誰でも分かるようなことを、「先生がわざわざ何時間もかけて教えている」ということです。

 

教師が読むための理論や教えるための理論を知らず、自明なことを語り続けるので、生徒は分かりきったことを「ゆっくり丁寧に教えてもらう」のです。

 

だから退屈なのです。石原千秋氏や小森陽一氏もよく指摘しています。

 

教師と生徒のレベルがほぼ同じ、だから小説から読み取るものは道徳的な心情しかないのです。

 

 

ちょっと違う角度から見て見ますと、冒頭の「親譲りの無鉄砲で、子供の頃から損ばかりしている」という文があり、破天荒な子供として語られていますが、その後には二階から飛び降りて腰を抜かしたエピソードの次に、「なぜそんな無闇をしたのかと聞くものがあるかもしれぬ」と語られているのです。

 

ということは、この話の語り手は「常識をわきまえた大人」になった後の「おれ」だということが分かります。

 

その破天荒な「坊っちゃん」を「大人」に変えたできごとが、愛媛での教師生活なのです。

 

教科書には第1章しか載っていませんが、それが第2章以降に何度も顔を覗かせます。そのような観点で読んでみると、発見のある話に変わります。

 

 

僕の同僚は、一応「進学校」なのに、こんな話をしても誰も理解しません。問題の解き方しか教えられないのなら生徒と同じレベルです。

 

下手をすれば、国語の教師のくせに「坊っちゃん」を読んでいないのかもしれません。

 

あまり知られていませんが、「それなりの授業」は話すのが苦手でない人なら誰でもできます。今日使用の教科書には、解説、発問の例、テストや配布プリントのサンプルがついてきます。それさえあれば、誰でもできます。

 

でも、それはとても退屈なものになりやすい代物です。「勉強をしろ」と言う立場の教師が、勉強していないのが、この国の現状なのです。先生が勉強を嫌いなのです。

 

だからこそ、前の日記に書いたように、どーでもいい生活指導や雑務処理、部活動などに鼻息を荒くして張り切りながら、ごく僅かの勉強熱心な教師を追い込んでいくのです。

 

勉強の面白さは生徒としか共有できない、という嘆かわしい事態だからこそ、生徒のことが輝いて見えるのかもしれません。

 

 

坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)

 

 

 

心を無にする必要性――休職に至るまで

僕は現在、学校を休職しています。

 

それからしばらくしてこのブログを始めたのですが、このはてなブログを少し除くだけで、同じような理由で同じような状態になっている先生方がたくさんいることに驚きました。

 

休職に至った原因は山ほどありますが、まず一番の引き金になった出来事について記そうと思います。ストレスがたまる原因は、一言でいえば、

 

「違和感の連続」です。

 

教える方が違和感を感じているのだから、教わる方は迷惑千万、深く傷ついてしまうこともたくさんあるでしょう。

 

「お金をもらっているのだから嫌なことでもしなくてはならない」

「妥協しないと組織が成り立たない」

 

そんなことは頭では分かっています。しかし、子どもたちが迷惑・傷つく上、何の意味もないことをさせるためにお金を払い、組織は成り立つのでしょうか?勉強を教えたり、部活動でスポーツを教えたりする時間を削って、そこに力を注ぐ。

 

それが「学校」であり、「教師」なのでしょうか?

 

そんな違和感を感じる場面は、やはり「生活指導(生徒指導)」なのです。

 

これが全く必要ないわけはありません。子どもたちも、「やって良いことと悪いことがある」なんてことはとっくに知っています。だから、授業中に寝ていたり、カンニングをしたり、教師に暴言を吐いたりしたら、怒られるのは当然だし、最後にはちゃんと謝ります。保護者もそれに関しては何も文句は言ってきません。

 

問題は、「なんでこれが<悪いこと>なの?」と、まともな神経をしていれば誰もが感じることを、真顔で「<悪いこと>」だと「指導」しなくてはならないことです。

 

そして、その「指導」のシステムが、生徒と保護者の不満を募らせるように出来上がっているのが、恐ろしいところです。

 

僕の場合は、こんな出来事がありました。

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初投稿。開設の経緯。

本日からブログを始めました。タイトルは「つひにゆく道」。

 

文学好きの人なら知っていると思いますが、これは古典「伊勢物語」の最終段で詠まれた、辞世の句です。作者は在原業平(※と思われる)。

 

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしか

 

最後には通る道とはかねてから聞いていたが、昨日今日のこととは思わなかった。つまり、人は誰しも死ぬということは分かっていたが、それが今になるとは思わなかったという意味の歌です。

 

最近ではニュースや記事などでもよく取り上げられていますが、教師の仕事というのはなかなかに大変です。僕もいつかは病むかもしれない、と思っていたら8年目にして早くも休職してしまいました。

 

そんなわけで、ブログのタイトルは「つひにゆく道」にしました。

 

労働時間などいちいち考えてはいませんが、軽く見積もっても「過労死ライン」を大きく超えています。 同僚だけでも、業務過多を理由に辞めていく人や、病気で働けなくなる人を何人も見てきました。部活の大会に行ったら、〇〇学校の監督が休職して別の先生が来ていた、なんてこともザラにあります。

 

でも、それが直接の原因ではないのです。

 

楽をしようと思えば楽をできる仕事ですから、やる気がある教員なら大変なのは諦めています。(僕の学校が比較的楽な方なのかもしれませんが)少しくらい手のかかる生徒でもかわいいもんです。生徒のために忙しくなるのは苦ではありません。

 

一部のタチの悪い保護者や不良は別として、生徒・保護者とそれなりの関係を築けないならば、とっとと辞めた方がいいと思います。過労死ラインを上回るくらいですから、同じくらい働けば、バイトだって食っていけます。

 

僕の場合、一番のストレスになるのは「疲労」ではありません。

 

「徒労」です。

 

無能な先生、やる気のない先生のしりぬぐい。

生徒の立場に立てば一つも効果のないことが明瞭な、行事や課題や生活指導。

一日の業務の大半を占める、無意味な事務仕事。無価値な研修会。

何の生産性もない、学級会以下の低質な会議の数々。

 

挙げればきりがありません。こんなことをこなしながら、家に持ち帰るしかない教材研究や自主勉強、休日は部活動という生活をしていれば、そりゃあメンタルも壊れます。

 

そんなわけで、休職することになってしまいました。

 

以前は、「教師に向いてないやつが生徒との関係を作れなくて病んでいくんだ」などと口幅ったいことを豪語していたのですが、自分がこんな状態になってしまい、少し見方が変わってきました。

 

自分で言うのもなんですが、少なくとも自分の勤務校の中では指導力が高い教師だと思っています。授業もクラスも部活動も楽しくやっています。休職してからは、心配した生徒たちが手紙をくれたり、卒業生が遊びに来てくれたりしています。

 

教師としての「やりがい」は十分すぎるくらい享受しているのにもかかわらず、それを上回るストレスで学校に行けなくなった。

 

というような状態です。仕事に行かなければ、普通の生活を送れるようになったので、この期間を使って、この辺の問題を中心に、学校教育の矛盾や問題について考えていこうと思います。

 

ほかにも、大好きな文学や音楽、バスケ、またお笑い(特にオードリーとさまぁ~ず)についても書いていくつもりです。

 

気が向いたらアクセスしてみてください。