つひにゆく道

休職中の国語教師が教育・文学・音楽などについて語ります。料理と愛犬についても結構書きます。

教員の過剰労働の前提

最近は、教員の労働環境が酷すぎる!というのが「ネットの」ニュースなどでよく取り上げられています。代表格は、内田良さんなどでしょう。

 

でも、それらでは語られていない前提があると思うので、今日はそれについて書きます。

 

突飛な話に聞こえるかもしれませんが、タモリさんがスーパーでネギを買っていたら皆さんはどう思いますか?

 

きっと、違和感があると思います。なぜなら、彼は「テレビの中のキャラクター」として一般的に認識されていて、あまり現実世界の人間だという当たり前のことが意識されないからです。テレビなどで料理上手な場面をよく見るのにもかかわらず、です。

 

(あんなすごい才能の持ち主と比較するのは不遜だと分かっていますが)教員も、それと似たような扱いなのだと思います。「学校」という現実から隔離された空間に存在するキャラクターなのです。

 

だから生徒は、お店で先生を見つけたり、友達や恋人とあっているところなどを見つけると、めちゃめちゃ盛り上がります。

 

つまり、人間として扱われていないのです。

 

普通の人なら、日曜日を奪われたら、毎日12時間以上働いたら、免許がなくてもできる仕事ばかりでストレスを溜めたら、しかもそれが全てボランティアでやることを強制されたら、その人の身体や家庭がどうなるかは分かるでしょう。

 

我が子のためとはいえ、お国のためとはいえ、「先生、よろしくお願いします」とは言えなくなるはずです。

 

これが、アホみたいにどんどん教員の負担を重くできてしまう社会のシステムや価値観なのだと考えています。

 

はっきり言って、それを本当にちゃんとこなせる人はごくわずかです。部活動をやりたくてやっている人もそんなに多くはないです。さらに、基本的に平均的な教員の学力レベルはかなり低く、専門知識や一般教養も乏しく、勉強が嫌いな人が大半なので、部活などの「免許と関係ない仕事」に居場所を見出すようになるのです。

 

しかし、普通なら身体を壊す量の仕事を、やりたくてやっている人は結構いるのです。そして、目立つのです。そして彼らは往々にして、人間がやる量ではない仕事を、「教員としての最低限」だとでかい声で触れ回すのです。

 

教員としての最低限は、生徒が知らない大学以上の学問的素養だと思うのですが、ほとんどの教員はそんなもの持っていない、持っていても活かせていないので、あまりもんだいになりません。

 

僕は30過ぎた今でも高校生と互角にプレーして、放送されているNBABリーグの試合は全て見る、というほどのバスケ狂なので、日曜日にバスケをするのは当たり前のことでした。

 

部活も「好きでやっている」と公言してました。勉強も研究会も、すべて「やりたくてやっている」と自覚してます。

 

でも、身体(というより精神?)を壊して、人間にはそんなことできないんだよ、と教えてもらった気がします。

 

いかがでしょう、皆さんは先生を現実に存在する人間だと思って扱っていましたか?

 

 

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

 
教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)