つひにゆく道

休職中の国語教師が教育・文学・音楽などについて語ります。料理と愛犬についても結構書きます。

休職して分かったこと①「人の評価と人間関係」

しばらく書かずにありましたが、たくさんの方がアクセスしてくれているようで、ありがとうございます。

 

始めた当初は良い吐き出し口だ、とか頭が鈍らないようにと思っていたのですが、精神衛生上どうなのかな(特に宣伝のために載せているTwitterを見ると)とも思いまして、しばらく離れてありました。

 

でもせっかく始めたことですし、後の道標として、少しずつ書いていこうと思います。というわけで、多分同じようなタイトルで同じようなことを1万人くらいの人が書いているとは思いますが、連続ものとしてやっていきます。

 

さて、今回は「人の評価」について。

 

好きな作家は太宰治村上春樹、好きなバンドはエレファントカシマシ、芸人ならオードリー若林と南キャン山里亮太、ということからも分かるように、30過ぎて恥ずかしいですが僕は「中二病」という言葉がぴったりの結構歪んだ自意識の持ち主です。人からは素直と言われますが、自分ではそれは自意識を持て余した結果だと思っています。この歳になって見た目も気にしますが、「オシャレな服」を着る気にはなれません。

 

というわけで、「人の評価」というのをとても気にしてしまいます。でも悪い評価はあまり聞き入れません。笑

 

一応、最難関と言われる高校や大学の出身ですが、16歳や18歳の時に手にした「学歴」など、30過ぎた今、肩書きとしてもはやなんの意味もないことは分かっています。

 

でも、それなりの対価を払って勉強してきましたから、「駅弁大学」の教育学部の出身の人とは一緒にされたくないし(実際かなり違うとは思う)、大したことない職業だけど、まあそれなりの努力をしたから、こんなに休んでても金をもらえる境遇を勝ち取ったのだ、なんて正当化してます。

 

Twitterとか見てると、公立中の先生は本当に大変だなあと思うけれど、「でもあんたは高校教員になれる頭ないでしょ」とか「部活なしで授業で勝負できんの?」とか「休み与えてもそもそもあんた勉強なんかしないでしょ」なんて思っちゃいますね。

 

そんな価値観なわけです。通院してる医者にはそういうのを改めるプログラムに参加するように言われましたが、絶対意味ないしまあ向きに取り組めるはずもないので、体力向上のやつだけ出てお茶を濁してます(4ヶ月前まで高校生と互角にバスケしてたのが信じられないくらいに落ちている)。せっかく手にした休みをそんなもんに使いたくはない。

 

てなわけで、抜け出したくなるくらいアホな教員ばかりの職場ですが、「まあこいつらよりはマシだな」と思える人がたくさんいるために、なんとかやっていけたというのはありますね。

良くないですけど、無関係で無能な人間には興味がないし、生きようが死のうが僕にはどうでもいいのです。

 

だからせっかくいい授業が出来たり、生徒が集まってきてくれても「こんな低レベルな学校だから俺程度がよく見えんのかな」なんて台無しにしてしまいます。実際、最難関の高校の採用試験は何度か落ちているからその程度なのかもなーとも思っています。

 

でも復職しても、もう彼らと関わる気は無いです。

 

話が逸れてました。これじゃ前のブログと変わらん。笑

 

さて、そんな風に考えて生きていたのですが、つまり、自分は常に「相対評価」で判断していたわけです。そして、少し離れたところから見て評価していたのです。よく人見知りしないフレンドリーな人間だと思われますが、他の人よりも少し近いところに線を引いているだけです。

 

でもそんな鳥瞰的になれない時もあります。例えば、バスケをしている時。エレカシの新曲を聴く時。ポールやディランを生で見た時。犬とじゃれあっている時。奥さんと楽しく過ごしている時。本当に面白い本に出会えた時。

 

邪魔するものなく本当に楽しんでいる時って、相対化や俯瞰なんてできませんよね。もう夢中で。

 

でも学校を抜け出してきた時が楽しいわけはありませんから、休めてホッとしたと同時に自分を人生の落伍者として扱ってもいました。だって、今までそういう人たちをはるか底に見下して、「お前はもともと向いてなかっただけだろ」とか「こんなやつ休暇じゃなくてクビにするいい機会だろ」なんて言っていたのですから。

 

だからせめて「ちゃんとしてやる!」との思いでその翌日から主婦のように家事に励みました。めっちゃ難しい本も結構読みました。犬の散歩も毎日連れて行きました。自分が病んだことを「なかったこと」にしたかったのでしょう。とにかくコンプレックスの塊です(今も大して変わらんけど)。

 

でも妻はいつもと変わらず接してくれて、「仕事をしている貴方が好きなわけじゃ無い」と言ってくれて、(もちろん自分だってそうなのに)筆舌に尽くせないほどの感銘を受けました。

 

身内にバレると面倒なので(そういうのを分かってくれる家ならこんな性格になってないし、最難関に行けるほど勉強なんかしてない)、休職のことは地元と繋がりのない、多分これからも関係が続くであろう親しい大学の友人数名にしか言っていません。

 

あまり人と頻繁に会うことはしないのですが、彼らは飲み会を企画していつも通り接してくれました。もう一つのグループの友人も同様です。それがとても救われました。

 

みんな頭が切れて仕事ができそうな人たちだし(だからこそ職場の環境は劣悪に感じる)、今まで「オレはめっちゃ働いている」的なことばかり言ってしまっていたので、正直どんな目で見られるのかなあ、腫れ物に触るようだったら嫌だなあと思っていたのですが、以前と何も変わらん。

 

僕だって彼らが仕事を辞めたり休んだりしたところで関係を変えたりしないのだから、当たり前なのですが、ストレスの限界だった時期だからこそ、言わば「絶対評価」で成り立っている(「評価」という言葉は相応しくないですが)その関係のありがたみが身にしみました。

 

それに引き換え、職場の人たちとの関係はどうでしょう。新人の頃から「社会人としての振る舞い」というのかな、とりあえず腹立つことがあっても気を遣いましたし、退屈な職場の飲み会にもできるだけ参加しました。後輩は大切にしたいタチなので、干渉にならない程度によく面倒見て、結構慕われてきました。

 

でも、それってただの「仕事の上での付き合い」ですよね。

 

その「付き合い」や「忖度」にかまけて、奥さんを放ったらかしにしてもいい?友達と会えなくなってもいい?生徒の味方をしなくてもいい?

 

勿論、答えは否です。でも、それは結果的に僕が8年間続けてきたことです。

 

では、僕が急に付き合いが悪くなったり、楯突いたり、慣例に反することをしだして、職場の人から煙たがられてもいい?

 

別にいーや。

 

だって、そんな人との関係は「相対評価」なのだから。そんな奴らに気をもむより奥さんや友達やワンコ達と過ごした方がいいに決まってる。そして、先生より生徒の方が大切。

 

部活は嫌いではないから、休日出勤があるのは仕方ないけど日数決めてやればいい。チームが出ない大会の大会の役員はやらん。答え写すくらいの宿題なら、初めから希望制にすればいい。どーせ勉強しないでテストに来る奴のために補習なんかしなくていい(「補習は無意味」というのはエビデンスのある「事実」です)。

 

離れてみて分かった関係の大切さと不毛さ。大切な方を大事にすればいいのです。

 

それがどーしてもできないなら、教員なんかやめればいーや。でも来年度は負担の軽い状態で戻れるから、使えるものは使えるだけ使おう。