先生、教員、教師。
今、嵐の櫻井くんが主演で、「先に生まれただけの僕と言うドラマ」が放送されています。
なかなか食ったようなタイトルで面白い。「先生」と言うのは読んで字の如く、「先に生まれた人間」です。まぁ、そもそもそういう意味の言葉ではない、ということは置いておいて。
少し、この呼称について考えてみたいと思います。
よく、自分のことを「先生」と呼ぶ人がいます。1人称が先生になっているのです。授業中でも、生徒と話すときでも、自分の名前は言わず、「先生は〜」といった感じで話すのです。
これには何か違和感があります。皆さんはそう思った事は無いでしょうか。好みの問題かもしれませんが、私はあまり好きではありません。
次に、「教員」と言う言葉ですが、これは職業を表す言葉ですから、僕も仕事を聞かれた時などには「教員」といいます。しかし、この言葉はあまり好きでは無いのです。
少しネガティブに考えがちなのかもしれませんが、何か無個性でつまらない人間のように聞こえるのです。少し冷たい響きのある言葉だと思います。
小さい子供が将来は教師になりたい、将来の先生になりたい、と言うならわかりますが、もし「教員になりたい」と言っていたら少し違和感があるのではないでしょうか。
無個性で、代替可能の存在として聞こえるこの言葉は、夢を表すにはふさわしくないような気がするのです。
最後に、「教師」と言う言葉はどうでしょうか。これを教え導く師匠と言う意味の言葉ですから、基本的には良い意味の言葉です。
しかし、こういう成り立ちであるために、自分のことを「教師」と呼ぶ人は、少し思い上がっているように聞こえるかもしれません。
それでも、自分のことを「先生」と呼ぶ人間や、「教員」という言葉を自分に向けて使う人は、ただ役割を演じているだけであって、個性をそぎ落とされた人のように見えてしまうのです。
代替可能の人間に、教わりたいと思う人はあまりないと思います。とは言え、これほどまでにサービス業と化してしまった学校教育は今この方向に向かっていこうとしています。
勉強を教えることよりも、「安心安全」の名のもとに、保護者に媚を売ることが良い教師の質として考えられている風潮が見られます。
自分は、生徒にとって師でありたいと思っています。また、師でなくては学問を教えるという崇高な営みを果たせないと思うからです。
そのため、僕は、矜持と自戒の念を込めて、生徒の前で自分のことを「教師」と言っています。それが生徒にとってどう映ってるかわかりませんが、少なくとも、「教員と」言う言葉が表すつまらない存在では無いんじゃないかなと思います。
ちなみに、「生」と言う字は、「生きる」と言う意味だけではなく、ある人のことを指す謙譲語として使われます。自分のことを指すときは「小生」といいます。これに「先」という字をつけて使っているのですから、「先生」という言葉は、これは尊敬語なのです。
例えば正岡子規の「歌よみに与ふる書」など、明治時代の文章を読むと、人のことを「生」と呼ぶ言い方は、数え切れない位出てきます。
その程度の学もない人は、「先に生まれただけの教員」で構わないと思います。
繰り返しの主張になりますが、そういう人は、授業ではなく事務仕事や部活動に活路を見出すべきだと思います。学生の時に基礎教養を身につけなければ、教員になってからそのレベルの勉強なんか出来るわけないのですから。
そういったことに時間を割かれず、教科指導に専念すると言えば聞こえはいいですが、それは自分の活動範囲を狭めることなので、その道のプロフェッショナルであることが求められます。
はてなブログやTwitterを見ると、休職している先生や部活動に苦しめられている先生がこれほどまでに多いのかと驚かされます。
しかし、そのうちのどれだけが、教科指導のプロフェッショナルでいられるのか僕は甚だ疑問です。
なんだか話がそれてしまいましたが、自分は教師でありたいと思っているのです。そして、僕の勤務校には教師がほとんどいないのです。僕の学校だけが特殊と言う事はまずないでしょうから、非常に危うい事態だと感じています。
皆さんの周りには、また、皆さんの恩師には、どれだけの数の「教師」がいましたか?私の周りは先に生まれただけの教員ばかりです。