つひにゆく道

休職中の国語教師が教育・文学・音楽などについて語ります。料理と愛犬についても結構書きます。

「分かりやすい」授業

評価の高い先生の授業は、一般的に「わかりやすい」授業として紹介されます。もちろんわかりにくい授業よりも「わかりやすい」授業の方が良いのは当然です。

 

しかし、この「分かりやすい」という言葉について深く考えてみると、危険な落とし穴が見えてくるのです。

 

この「分かりやすい」と言う言葉は、あまりにも一般的になりすぎたため、生徒はとても広い意味でこの言葉を使います。しかし、一般的な意味での「わかりやすい」、つまり明快であるということは、決して技量が高いという評価ではなく、授業の最低ラインであるのは言うまでもないことです。

 

学問と言うのは、深遠で魅力的なものです。陳腐な言い方かもしれませんが、わからないからこそ面白いのです。しかし、全くわからないことばかり学んでいくと言うのは、あまりにも生徒にとって負荷が大きすぎます。

ですから、よく考えなければわからないけれども、よく考えれば少しずつわかるようになるというのが本来の魅力的な授業であるはずです。

 

また、中学生や高校生の生徒のレベルでは、知っているはずのないようなこともありますから、教科書に載っているような話題であっても、専門的な知識がないとわからないようなことを教えてやるのが、教師の本来の役割の1つであるはずです。

 

「眼光紙背に徹す」という言葉がありますが、教師は書かれた文字の裏側にある、壮大な背景まで読めていなくてはいけないのです。いけないというより、そうでなくてはつまらないのです。

 

しかし、まず世の中には授業力のない教員が多すぎます。皆さんも経験があるでしょうが、何を言ってるのかさっぱりわからない、仮にそれなりのレベルの話をしていたとしても、この人の授業はあまりにもつまらなくて全く聞く気が起きない、そのような授業をよく目にしてきたはずです。むしろ、面白い授業よりも、このような授業の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。

 

そのため、ただ教科書に載っているだけのことを、簡潔で「わかりやすく」説明するだけで良い授業と評価されてしまうようです。塾やn流「進学校」のエース講師などはこの傾向があります。今では、予備校のエース講師はそのような低レベルな授業をしていません。

 

ですから、教員がこのような授業を学校でしていては、予備校のほうがレベルが上だと思われても仕方がありません。現に、ほとんどの生徒は、「学生の頃塾の先生をやっていた」というと、「すげー」という反応をします。学校の教師はなめられているのではなく、本当に下なのです。

 

そしてこの、「分かりやすさ」をもう少し具体的に見てみると、「噛み砕く」と言う言葉がよく使われます。「噛み砕いてわかりやすく」という言葉はよく聞きますね。

 

しかし、この「噛み砕く」と言う言葉はとても厄介なものです。なぜなら、学習する内容にはとても深い背景があったり、実は非常に難解なものも多いのが事実です。ですから、その理解を目指すためには、そのようなものを切り捨てることがなかなか難しく、ましてや、それを凝縮して話すならば相当に難しいことです。

 

しかし、このような内容は優秀な教師にとっても難しいのですから、低レベルの教師は知らない・理解できないどころか、「そのような世界が存在するということすら予想できない」と言うことが実は往々にしてあるのです。

では、そのような教師が授業する際には何を行うのでしょうか?

 

噛み砕くのではなく、切り捨てるのです。

初めから難しい部分は話さず、簡単な部分だけを話すのです。

 

そして、本来ならば、生徒の知的好奇心を刺激するような魅力的な内容には触れず、自明なことだけを語り続けるのです。

 

初めから分かって当然のことしか話さなければ、「分かりやすい」のは当然です。教科書に載っていることを表面的な解説しかしなければ、優秀な生徒は、自分で教科書見ればわかりますから、授業を聞く気もしません。

一方で、好奇心を刺激されないのですから、勉強が苦手な子や勉強が嫌いな子は、いつまでたっても興味がわかず、を勉強つまらないものだと思い続けてしまうのです。

 

現に、本屋さんに行って「月刊国語教育」などの教育関係の雑誌を読んでみると、「授業実践」と称してこの程度のレベルのものを紹介している代物がとても多く見受けられます。これは確かに、やり方は新しいかもしれませんが、内容的にはごまかしに過ぎないのです。これはもはや授業ではなく、ゲームです。学問に対しての興味など湧いてくるはずもありません。

 

自分の時間を犠牲にして、授業研究に声を出している人ですがこのような有様なのです。さらに、公立の学校の多くを占める地方国立大学教育学部ですが、彼らを指導する先生たちも、所詮は大したレベルの大学ではありませんから、あまり研究者として優れていない人が多いです。ただ、就職なんかできそうにもない人が傷をなめあうために、大学院に残って研究続けていた、という程度の輩たちが、運良く就職口を見つけて、無意味な論文を書き続けている、というのが9割です。

 

ですから、このようなゲームのようなレベルのものを「革新的な授業」と称して教え、大したレベルではない学生たちが、大したレベルではない教員となっていくのです。そして彼らに指導を受けた生徒たちは、教師に対して憧れなど抱くはずもありませんから、優秀な人は教員を目指す事は無いのです。

こういった現場が一般的で、それなりに学識のある人が教員となっても、周囲の人々に阻害され楽しい授業をすることがどんどんどんどん難しくなっていくのです。相当に強固な負のスパイラルが頑丈にできあがっているのです。

 

実際に、大学生の方は教職の授業をのぞいてみてください。人前でオナニーしあうのが好きな変態たちが主導権を握っています。「あの空気」がいやすぎて、「教職辞めた」という人はたくさんいます。

 

本来、学問と言うのは万人に平等なものです。ですから、生徒が先生の言うことにケチをつけたり、異議を唱えたりしても構わないのです。むしろそれを好機と捉え、やる気を失わせない上手な反論や、まだ生徒が見えていない点を教えてあげることによって、対話的で魅力的な授業が出来上がっていくのです。

 

そのような素養を持たない人間が、活動的な事業、いわゆるアクティブ・ラーニングを実践してみたところで、「生徒が話をしてもよい形での自習」に成り下がるのです。

 

学問に関して言えば、生徒と先生の力関係と言うのは、校則や権力の後ろ盾に保障されたものではなく、普段の指導の中で、自分よりも教師の方が上なのだということを生徒自身が自覚することで成り立つものです。

 

実際に、僕は自分の在籍していた中学校の授業を受けて、先生たちが自分より頭が良いと思った事は1度もありません。若気の至りでそう思っていたのではなく、それなりに教育的知識を手にした今でも全く変わらずそう思っています。

 

自分と同じレベル、下手をすれば、自分より知識や教養で劣った人間に教わると言うことほど不幸な事はありません。そのような人間が、「勉強しなさい」と言ったところで、誰が勉強する気になるでしょう。「勉強した結果、あんたみたいなるならやらねーよ」と思われてしまうのではないでしょうか。

 

現在では、細かくルールを決めて、「しつけ」をする教育がメジャーになっています。もちろん教育に「しつけ」は不可欠ですが、動くのは生徒自身です。「やらされる」というのは意識であって、行動の実態ではありません。

 

「しつけ」によって達成されることは、これをすると怒られるからやってはいけない、という類のものであり、法律を守るなどといった場面についてのみ有効な教育なのです。

 

勉強してみよう、スポーツを楽しむ、友達を大切にしよう、などなどこういった類の事はしつけではなく、「感化」によってもたらされるものです。

 

先生の授業受けて、勉強でとても好きになった。面白いと思えるようになった。その分野についてより興味がわいた。自ら学んでみようと思いそして実際に学んだ。ここまで達成できてこそ、授業と言うのは真に実があるものになったと思うのです。

 

なかなか理論化・数値化できるものではありませんが、生徒がどれだけ感化によって動いているかという指針で測りなおすと、現在「いい先生」だと思われている人のほとんどは、「詐欺師」に見えてくるかもしれません。

 

 

残念な教員 学校教育の失敗学 (光文社新書)

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教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか? (朝日新書)

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