つひにゆく道

休職中の国語教師が教育・文学・音楽などについて語ります。料理と愛犬についても結構書きます。

学校内の「治安維持法」について

「学校は退屈だ」などというと、尾崎豊みたいでダサいかも知れません。しかし一方で、たくさんの思い出や、すばらしい友や師と出会ったという経験も多くの人にはあるでしょう。

 

しかし、それは「学校」のおかげでしょうか?友達や先生個人のおかげのものがほとんどではないでしょうか。 

 

今日はその「学校」という特異なシステムについて、「治安維持法」という言葉を使って考えてみたいと思います。

 

 

 

1.治安維持法とその背景について

  

小林多喜二という作家をご存じだろうか。彼の書いた「蟹工船」はブラック企業がはびこる現代、再びブームとなった。「蟹工船」はあまりにも有名だが、「党生活者」という小説もあり、彼はこれを書いた数日後、治安維持法で捕まり、リンチにかけられ殺された。

 

この「治安維持法」という法律は、明治時代、普通選挙法と共に作られた法律だ。これを中学校の歴史では、

 

「平等な社会を作ったと見せかけて、実は都合のいいように取り締まれるようにしたんだよ」

 

などと教える。断言するが、こういう教え方をする奴からは何も学ぶことはない。

 

当時、世界はイギリスで起こった産業革命に端を発し、資本主義・軍国主義国民国家の新しい世の中へ舵を切り、日本もそれを追随する形で近代化を進めていった。世界がそうした方向に向かっていく中で、差別・貧富の差・労働者からの重い搾取などなど、種々の問題が見えるようになってきた。

 

思想家・経済学者のカール・マルクスはその様を眺め、

 

「(資本主義という)化け物がヨーロッパ中を徘徊している」

 

という書き出しで斬る、「共産党宣言」を執筆し、共産主義の世の中を目指した。その「共産主義」を取り締まるための法律が、「治安維持法」の一番の役割なのだ。(余談ですが、僕の勤務校には文系の先生でも「共産党宣言」を読んだという人はほとんどいません。100ページもない本なのに、情けない。)

 

そして世界は、「資本主義」と「共産主義」という大きな柱の下に、二度の世界大戦が起こり、仮想的な第三次世界大戦、つまり冷戦の終結を以て、前者の圧倒的な勝利が告げられる。それは、「ソ連」という国そのものが潰れてしまうという悲劇的な終焉であった。

 

 

理屈っぽく書いてしまったが、上の文章を読んでいただくと、社会や国語で習ったいくつもの単語が出てくるのに気づくでしょう。しかし、この共産主義」に関する話は、一種の「タブー」となっているため、学校内で語られることはあまりない。

 

中学校3年生の国語で、魯迅の「故郷」という話を習うが、教師用指導書(先生用の解説書・資料集みたいなもの)には、「歴史的背景はあまり話さないように」と注意書きまでつけられている

 

彼は共産主義革命を目指し、のちに毛沢東から「大先生」と崇められた人物であり、文学革命を達成し、あの小説を書いたのだが、それに触れることができなければ、結局小学校と同じような授業(心情と「成長」しか語らない授業)しかできない。しかも小説としての完成度はそれほど高くはないので、下手をすれば「ごんぎつね」等の方がよっぽどよい授業になるかもしれない。

 

2.学校内における「治安維持法」 

なぜこのようなことが起こるのか。一般的な教員や地方国立大(「駅弁大学」)の教育学部の人たちは、教養のない人がほとんどです。「それよりも、教え方の方が大切だ」などと言い出します。知識を得るとアイディアが出なくなるという危険な思い込み。最近では、生徒が主体的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」の流行によって、そのレベルの先生は存在価値がなくなろうとしています。 

 

僕の職場の後輩たちには、大学できちんと学び、学問を愛する教師が何人かいます。そして彼らは、僕が若いころに受けた仕打ちを繰り返されています。端的に言えば、「そんな難しいことやらなくていいよ」と言われ続けることです。僕が授業を見に行った限りでは、とてもよい授業を展開しているし、生徒のウケもなかなかです。

 

つまり、彼ら無知な教員には、よい授業を見ても、その「よさ」が分からないのです。

 

往々にして、教員が「(生徒にとって)難しい」というときは、実は「(自分にとって)難しい」のです。だから、本当に価値のある話題を避け、自明なことを語り続ける授業が展開されるのです。

 

しかし、それにも利点はあります。一言でいえば、

 

バカでも授業ができる・ずっと同じことができる

 

という2点です。能力の低い生徒を助けよう、というならまだ分かりますが、能力の低い教員に合わせることに何のメリットがあるのでしょう。だからバカでも「生活指導」に精を出したり、保護者にヘコヘコしたり、部活動で怒鳴っていたりすれば一人前の教員のように見えてしまうのです。よほど荒れた学校や、極端に学力の低い学校ならば事情は別ですが、

 

まともな学校ならば、授業に魅力があれば、生活指導なんてほとんど必要ありません。ホームルームでいかにも人生を悟ったかのようにして綺麗事を語る必要はありません。そんなことをしなくても勝手に関係は出来上がります。授業ができない教員がそんなことを語っても場はどんどん白けていくだけで逆効果です。

 

しかし、それをやるだけの人材はいないし、何より学問を捨てた人間がどんどん出世していき、出世すれば授業ができなくなる(やらなくて済む)のが「学校」といシステムですから、ゴミも積もれば山となる、それがスタンダードとして強制されていくのです。

 

「学校」を支える価値観をいくつか並べてみましょう。たとえば、

 

・「できない子」「やるきのない子」を伸ばすのが「いい先生」だ

 →上を見捨てている。

・「できる」子は教えなくても「できる」

 →生徒の方が上なだけ。

・大切なことはみんなで決めて、みんなで守る

 →決まるはずもない。派閥や造反を生む。

・塾じゃないから難しいことはやらない

 →簡単な問題の中にある難しいテーマを読めていないだけ。

・勉強より大切なことがいくらでもある

 →問題のすり替え。勉強しなくていいわけではない。

・連帯責任

 →罪を犯した者が得をする、もしくは必要以上の罰を受ける。

・みんな同じでみんないい

 →個性の搾取。

・挙手による多数決

 →バイアスがかかった中での議決。

 

などなど。これらは、どう見ても社会のシステムから逸脱していることは明白で、これでは組織としての成長などあり得ません。100人で何時間も会議をして、仕事ができるものもできないものも同じ給料で、みんなで地味な服を着て、仕事の優先順位は逆になり、やる気と能力がある「上」を見捨てて見込みのないところにエネルギーを注ぎ続ける。腐敗した組織です。

 

この「治安」を「維持」することが、無能な教員が時代から取り残されても幸せに生活し続けるための、「学校」における「治安維持法」なのです。

 

3.行きつく先は時代が教えてくれている

 

これまでに書いてきたシステムは、現代のものとは全く違う、100年前の原初的な共産主義によく似ているのです。上に書いたように、ソ連は国ごとなくなりました。学校で教わることは、実社会では役に立たないと昔から言われていますが、それは見方を変えれば「数年後には学校ごとなくなっている」ということです。

 

教育は国家100年の計、という言葉がありますが、未来を支える子どもたちが9年~12年間過ごす場所は、今の日本にも世界にも全くそぐわない、強烈な左翼思想に支えられているのです。

 

時代を知ってほしい。先見の明を持ってほしい。いや、そんなことしなくていいから黙っててほしい。

 

こんなシステムである以上、昨日もニュースで教員の「働き方改革」がうんちゃらとか言っていましたが、はたして彼らは楽になった分の時間を生徒に還元できるのか?はなはだ疑問です。

 

「平等」という概念が誤解されていると思います。「平等」とはチャンスの平等であって、ゴールの平等であるはずがありません

 

全員で何かをすれば、自己責任の下で何らかの差は生まれてしまうものだ、ということを受け入れない限り、無駄な仕事が増えていく予感しかしません。

 

 

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

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マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

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