[追記]ゆったりした1日。
仕事で死んでた時は、家のことなんかほとんどやる暇はなかった。せいぜい日曜日の部活の後くらいかな。
僕は無類のビール党なので、この期間、何もしないと酒浸りになるのが目に見えている。その対策として(?)家事全般は僕が担当することを申し出た。元々家事は好きだし、上手く時間を使って家を綺麗にしたり、ご飯のメニューを考えるのがとても楽しいし、奥さんもとても喜んでくれる。
欠かさず作るのは、奥さんが早番の日のお弁当と、後は、晩御飯。たまにはお菓子でも作るかと思い、冷凍のパイシートを買って来て、アップルパイに挑戦しました。
パイシートにつくり方書いてありますが、肩の上にパイ生地を伸ばして敷いて、その上に砂糖で煮て水分飛ばしたリンゴを乗せ、さらに細く切ったパイ生地を格子状にかぶせ、残った生地を型のふちに乗せて、180℃で35分くらい焼けば終わり。誰でもできる。
そして犬の散歩に行くと、僕の街では有名な鳥、コクチョウの雛が孵っていました。写真ではあまりわかりませんが、お腹のとこにいる白いやつ。
もうこの街に8年近く住んでいるのに、コクチョウの雛なんて初めて見たし、そもそもこの時期に生まれることも知らなかった。
自分も奥さんも2匹の犬も、家族を大切にできる、のんびりした時間でした。あの忙しさじゃこんなことできないなあ。この国では、家族を見捨てて他人の子の相手をボランティアでするのが、教師の使命だと思うと切ないですね。
[追記]
たった2日で、こんなに大きくなっていました。鳥はすごい。犬よりさらに成長早い。
学校内の「治安維持法」について
「学校は退屈だ」などというと、尾崎豊みたいでダサいかも知れません。しかし一方で、たくさんの思い出や、すばらしい友や師と出会ったという経験も多くの人にはあるでしょう。
しかし、それは「学校」のおかげでしょうか?友達や先生個人のおかげのものがほとんどではないでしょうか。
今日はその「学校」という特異なシステムについて、「治安維持法」という言葉を使って考えてみたいと思います。
1.治安維持法とその背景について
小林多喜二という作家をご存じだろうか。彼の書いた「蟹工船」はブラック企業がはびこる現代、再びブームとなった。「蟹工船」はあまりにも有名だが、「党生活者」という小説もあり、彼はこれを書いた数日後、治安維持法で捕まり、リンチにかけられ殺された。
この「治安維持法」という法律は、明治時代、普通選挙法と共に作られた法律だ。これを中学校の歴史では、
「平等な社会を作ったと見せかけて、実は都合のいいように取り締まれるようにしたんだよ」
などと教える。断言するが、こういう教え方をする奴からは何も学ぶことはない。
当時、世界はイギリスで起こった産業革命に端を発し、資本主義・軍国主義・国民国家の新しい世の中へ舵を切り、日本もそれを追随する形で近代化を進めていった。世界がそうした方向に向かっていく中で、差別・貧富の差・労働者からの重い搾取などなど、種々の問題が見えるようになってきた。
思想家・経済学者のカール・マルクスはその様を眺め、
「(資本主義という)化け物がヨーロッパ中を徘徊している」
という書き出しで斬る、「共産党宣言」を執筆し、共産主義の世の中を目指した。その「共産主義」を取り締まるための法律が、「治安維持法」の一番の役割なのだ。(余談ですが、僕の勤務校には文系の先生でも「共産党宣言」を読んだという人はほとんどいません。100ページもない本なのに、情けない。)
そして世界は、「資本主義」と「共産主義」という大きな柱の下に、二度の世界大戦が起こり、仮想的な第三次世界大戦、つまり冷戦の終結を以て、前者の圧倒的な勝利が告げられる。それは、「ソ連」という国そのものが潰れてしまうという悲劇的な終焉であった。
理屈っぽく書いてしまったが、上の文章を読んでいただくと、社会や国語で習ったいくつもの単語が出てくるのに気づくでしょう。しかし、この「共産主義」に関する話は、一種の「タブー」となっているため、学校内で語られることはあまりない。
中学校3年生の国語で、魯迅の「故郷」という話を習うが、教師用指導書(先生用の解説書・資料集みたいなもの)には、「歴史的背景はあまり話さないように」と注意書きまでつけられている。
彼は共産主義革命を目指し、のちに毛沢東から「大先生」と崇められた人物であり、文学革命を達成し、あの小説を書いたのだが、それに触れることができなければ、結局小学校と同じような授業(心情と「成長」しか語らない授業)しかできない。しかも小説としての完成度はそれほど高くはないので、下手をすれば「ごんぎつね」等の方がよっぽどよい授業になるかもしれない。
2.学校内における「治安維持法」
なぜこのようなことが起こるのか。一般的な教員や地方国立大(「駅弁大学」)の教育学部の人たちは、教養のない人がほとんどです。「それよりも、教え方の方が大切だ」などと言い出します。知識を得るとアイディアが出なくなるという危険な思い込み。最近では、生徒が主体的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」の流行によって、そのレベルの先生は存在価値がなくなろうとしています。
僕の職場の後輩たちには、大学できちんと学び、学問を愛する教師が何人かいます。そして彼らは、僕が若いころに受けた仕打ちを繰り返されています。端的に言えば、「そんな難しいことやらなくていいよ」と言われ続けることです。僕が授業を見に行った限りでは、とてもよい授業を展開しているし、生徒のウケもなかなかです。
つまり、彼ら無知な教員には、よい授業を見ても、その「よさ」が分からないのです。
往々にして、教員が「(生徒にとって)難しい」というときは、実は「(自分にとって)難しい」のです。だから、本当に価値のある話題を避け、自明なことを語り続ける授業が展開されるのです。
しかし、それにも利点はあります。一言でいえば、
バカでも授業ができる・ずっと同じことができる
という2点です。能力の低い生徒を助けよう、というならまだ分かりますが、能力の低い教員に合わせることに何のメリットがあるのでしょう。だからバカでも「生活指導」に精を出したり、保護者にヘコヘコしたり、部活動で怒鳴っていたりすれば一人前の教員のように見えてしまうのです。よほど荒れた学校や、極端に学力の低い学校ならば事情は別ですが、
まともな学校ならば、授業に魅力があれば、生活指導なんてほとんど必要ありません。ホームルームでいかにも人生を悟ったかのようにして綺麗事を語る必要はありません。そんなことをしなくても勝手に関係は出来上がります。授業ができない教員がそんなことを語っても場はどんどん白けていくだけで逆効果です。
しかし、それをやるだけの人材はいないし、何より学問を捨てた人間がどんどん出世していき、出世すれば授業ができなくなる(やらなくて済む)のが「学校」といシステムですから、ゴミも積もれば山となる、それがスタンダードとして強制されていくのです。
「学校」を支える価値観をいくつか並べてみましょう。たとえば、
・「できない子」「やるきのない子」を伸ばすのが「いい先生」だ
→上を見捨てている。
・「できる」子は教えなくても「できる」
→生徒の方が上なだけ。
・大切なことはみんなで決めて、みんなで守る
→決まるはずもない。派閥や造反を生む。
・塾じゃないから難しいことはやらない
→簡単な問題の中にある難しいテーマを読めていないだけ。
・勉強より大切なことがいくらでもある
→問題のすり替え。勉強しなくていいわけではない。
・連帯責任
→罪を犯した者が得をする、もしくは必要以上の罰を受ける。
・みんな同じでみんないい
→個性の搾取。
・挙手による多数決
→バイアスがかかった中での議決。
などなど。これらは、どう見ても社会のシステムから逸脱していることは明白で、これでは組織としての成長などあり得ません。100人で何時間も会議をして、仕事ができるものもできないものも同じ給料で、みんなで地味な服を着て、仕事の優先順位は逆になり、やる気と能力がある「上」を見捨てて見込みのないところにエネルギーを注ぎ続ける。腐敗した組織です。
この「治安」を「維持」することが、無能な教員が時代から取り残されても幸せに生活し続けるための、「学校」における「治安維持法」なのです。
3.行きつく先は時代が教えてくれている
これまでに書いてきたシステムは、現代のものとは全く違う、100年前の原初的な共産主義によく似ているのです。上に書いたように、ソ連は国ごとなくなりました。学校で教わることは、実社会では役に立たないと昔から言われていますが、それは見方を変えれば「数年後には学校ごとなくなっている」ということです。
教育は国家100年の計、という言葉がありますが、未来を支える子どもたちが9年~12年間過ごす場所は、今の日本にも世界にも全くそぐわない、強烈な左翼思想に支えられているのです。
時代を知ってほしい。先見の明を持ってほしい。いや、そんなことしなくていいから黙っててほしい。
こんなシステムである以上、昨日もニュースで教員の「働き方改革」がうんちゃらとか言っていましたが、はたして彼らは楽になった分の時間を生徒に還元できるのか?はなはだ疑問です。
「平等」という概念が誤解されていると思います。「平等」とはチャンスの平等であって、ゴールの平等であるはずがありません。
全員で何かをすれば、自己責任の下で何らかの差は生まれてしまうものだ、ということを受け入れない限り、無駄な仕事が増えていく予感しかしません。
カズオ・イシグロは「日本人」なのか
ボブディランの受賞や村上春樹が取れないことで、毎年話題に上がるノーベル文学賞ですが、先日、カズオ・イシグロさんが受賞しました。
「私を離さないで(Never let me go)」くらいしか読んだことはないけれども、とてもうれしい出来事でした。
しかし、そこで流れてくるニュースを見て、非常に強い違和感を抱いたのです。
「日本出身の作家として3人目の受賞」
と報じられていたのです。
確かに、彼は5歳のころまで日本で過ごし、初期の作品は「記憶の中にある日本」をテーマに書いています。そういう意味では、日本にゆかりのある作家が受賞したのはとても喜ばしいことです。
ただ、幼いころにイギリス国籍を取得し、ほとんど日本語をしゃべらず英語の世界で活動している彼を、いかにも「日本の作家」のように扱おうとする風潮に、少し危ないな、と感じるのです。
メディアの役割は、単に情報を発信するだけでなく、「権力の監視装置」でなくてはならないはずですが、こういうところを見ると日本はまだまだ右翼化傾向の強い国で、少し前に話題になった「言論の自由が脅かされている国」だと外国から指摘されてしまうのにも頷けます。
独裁の恐ろしいところは、国民が「独裁の下で生活している」と感じないところです。普段は意識しないところに目を向けて考えてみると、それが見えてきます。
たとえば、「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」というごろ合わせは誰もが学習して記憶していることだと思いますが、この1192年というのは源頼朝が征夷大将軍任命された年で、それを以て鎌倉幕府の成立と位置付けているのです。
しかしながら一方で、1185年という説もあり、これはそれまでの貴族社会とは一線を画す「守護・地頭の設置」という社会システムの実質の革新を以て鎌倉時代、つまり武士の時代の始まりだとするものも存在するのです。
では、なぜ前者がスタンダードとして扱われているのでしょう?それは、上に書いた「任命」の主語を考えれば言わずもがな、浮かび上がります。
歴史学が専門ではないので本当の詳しいところは分かりませんが、「思想は細部にこそ宿る」というのが現代思想の常識です。
僕は極端な左翼思想は嫌う人間なので、別にこれが悪いことだとは思いませんが、自分の中で相対化してきちんと考える姿勢はとても大事だと思います。
さて、話が逸れてしまいましたが、2年前に受賞したボブ・ディランの代表曲に、「Times they're changing」―時代は変わるーという歌があります。
黒人初の大統領が誕生してからたった8年で、「壁」を作ろうとする人が大統領になったりと、めぐるめく世界は変わっていきますが、
はたして、「日本」は変わったのでしょうか?
ディランの言うように、「The anser is blowin' in the wind.」―答えは風の中ーでは済まされないかもしれません。
教員の過剰労働の前提
最近は、教員の労働環境が酷すぎる!というのが「ネットの」ニュースなどでよく取り上げられています。代表格は、内田良さんなどでしょう。
でも、それらでは語られていない前提があると思うので、今日はそれについて書きます。
突飛な話に聞こえるかもしれませんが、タモリさんがスーパーでネギを買っていたら皆さんはどう思いますか?
きっと、違和感があると思います。なぜなら、彼は「テレビの中のキャラクター」として一般的に認識されていて、あまり現実世界の人間だという当たり前のことが意識されないからです。テレビなどで料理上手な場面をよく見るのにもかかわらず、です。
(あんなすごい才能の持ち主と比較するのは不遜だと分かっていますが)教員も、それと似たような扱いなのだと思います。「学校」という現実から隔離された空間に存在するキャラクターなのです。
だから生徒は、お店で先生を見つけたり、友達や恋人とあっているところなどを見つけると、めちゃめちゃ盛り上がります。
つまり、人間として扱われていないのです。
普通の人なら、日曜日を奪われたら、毎日12時間以上働いたら、免許がなくてもできる仕事ばかりでストレスを溜めたら、しかもそれが全てボランティアでやることを強制されたら、その人の身体や家庭がどうなるかは分かるでしょう。
我が子のためとはいえ、お国のためとはいえ、「先生、よろしくお願いします」とは言えなくなるはずです。
これが、アホみたいにどんどん教員の負担を重くできてしまう社会のシステムや価値観なのだと考えています。
はっきり言って、それを本当にちゃんとこなせる人はごくわずかです。部活動をやりたくてやっている人もそんなに多くはないです。さらに、基本的に平均的な教員の学力レベルはかなり低く、専門知識や一般教養も乏しく、勉強が嫌いな人が大半なので、部活などの「免許と関係ない仕事」に居場所を見出すようになるのです。
しかし、普通なら身体を壊す量の仕事を、やりたくてやっている人は結構いるのです。そして、目立つのです。そして彼らは往々にして、人間がやる量ではない仕事を、「教員としての最低限」だとでかい声で触れ回すのです。
教員としての最低限は、生徒が知らない大学以上の学問的素養だと思うのですが、ほとんどの教員はそんなもの持っていない、持っていても活かせていないので、あまりもんだいになりません。
僕は30過ぎた今でも高校生と互角にプレーして、放送されているNBAとBリーグの試合は全て見る、というほどのバスケ狂なので、日曜日にバスケをするのは当たり前のことでした。
部活も「好きでやっている」と公言してました。勉強も研究会も、すべて「やりたくてやっている」と自覚してます。
でも、身体(というより精神?)を壊して、人間にはそんなことできないんだよ、と教えてもらった気がします。
いかがでしょう、皆さんは先生を現実に存在する人間だと思って扱っていましたか?
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犬のバースデー。
我が家には2匹の犬がいます。1匹はプロフィール画像のダックスフント。
去年の夏から彼女と同棲を始め、彼女が飼っていた犬も一緒に暮らし始めました。もともと犬は大好きだったので、アホみたいに溺愛しています。周りの人間は、いつも犬の話ばかりする犬バカになった僕の豹変ぶりに引いています。
そして冬に婚約しました。普通ならここで指輪を贈るのですが、「婚約指輪なんて使わないからいらない」と言われていたので、彼女がネットで見て「可愛い!」と言ってた犬を、この日くらいはと思い年休を取って埼玉の果てまではるばる買いに行きました。
そんなサプライズでプロポーズしました。
当時はまだ2ヶ月の赤ちゃん犬。ジャックラッセルテリアとチワワのミックス犬です。親バカかもしれませんが、散歩してるとみんなが振り返るような天使犬です。気性が荒く吠えまくり、家を破壊される上に、毎日ウンコまみれにするバカ犬ですが。
当時の彼はこんなです。
そんな彼が、今月ついに、1才を迎えました。人間に比べると、犬の成長は驚くほど早く、離乳食しか食べれず、片手に乗るくらいの大きさで、怖がって散歩も行けなかったのに、もうすっかり大きくなって、すごい食欲で、毎日散歩をせがみます。
そして、バースデーのお祝い。
ケーキと服を買ってあげました。
あとたった15年ほどでこいつがいなくなるなんて、想像もしたくないし、多分いなくなったらまた仕事行けなくなりそうですが、なんの芸もできないバカ犬のままでいいから、たくさん遊んでやるから、とにかく元気で可愛がらせてくれ。
こんな純粋に愛せるものがあるっていいですね。
休職してますが、こいつらのおかげで何とか元気にやれてます。
手先が不器用な人間がハロウィンを祝おうとするとこうなる(料理日記)
いい年をして中二病が治らないので、渋谷のハロウィン行列などもっての外、友達とハロウィンパーティーなど死ぬまでやることはないと思う。
「それをやっている自分」に耐えられないのだ。そんなこと言わずに楽しめる人たちが、人生を楽しめるし、そちらの方が勝ちなのだ、なんていうことはとっくに気づいてますが。
そんな僕が、スーパーで小さなかぼちゃを見つけたので、今日はハロウィンだし、折角だからかぼちゃのお化けの料理でも作ろうと思い立ったのである。
頭の中でのイメージはこんな感じ。
作り方は簡単(間違ってはいないはず)
①カボチャを丸ごと、ラップに包んで電子レンジで火を通す。
②上の部分を切り取って(あとでフタになる)、中身をくり抜く。
③くり抜いた中身を潰して、マヨネーズかバターと和え、砂糖を足してサラダにする。
④皮をくり抜いたり、野菜やハムなどを使って飾り付け。
⑤中身を戻してフタをして完成。
楽勝じゃん、と思って始めたのですが、手先が不器用なのがぼくの弱点。字や絵は見る人が絶句するくらい下手。自分の書いた黒板を見ると死にたくなる。美術の成績は3年間「2」を取り続け、CD‐ROMの入らない傾いたCDラックや、絵の具が溶けてゾンビのようになった自画像など、伝説的な作品を作り続けた。
料理は得意だが、切るのや盛るのは大の苦手なのです。
そして今日の顚末を紹介。先ほどのレシピに即して説明します。
①クリア(当たり前)
②上手くくり抜けず、壁(皮)が決壊してゲームオーバー。
③もういいやと諦めてサラダの味付けはした。
④せめて周りをハムやチーズで飾りつけようと奮闘するも、全く上手く巻けずに荒れていく。お化けの目にしようと思ったピーマンのヘタはテキトーに置いた。
⑤フタだけはしようと思い、フタを置き、完成。こちら。
ハロウィンのかけらもない、改めて見ると泣けてくる、、、。
どーやら、仮装どころかハロウィンの料理すら楽しめない星に生まれてしまったようです。
奥さんはけなさずに、美味しく食べてくれました。ゴメンよ、ダンナがハロウィン不可能星人で。
料理日記(ローストビーフ他)
プロフィールにある通り、現在休職中でございます。奥さんは仕事しているので、この期間、家では僕が主婦をやっています。
国語やバスケを教える立場のくせに、胸を張って得意だと言えるものは、実は料理なのです。1度食えば大抵のものは再現できる、というのが特技です。自分でいうのも何ですが、僕より料理が上手な人はそうはいないと思います。
これまで仕事ばかりで全然家にいなかったのに、毎日家にいて家事もこなしているので奥さんと2匹の愛犬は喜んでいるし、僕も小さいころから家事が好きなので全くのストレスフリーです。これで食っていけるなら(いけるわけない)、ずっとこのままでいたいくらいです。
どーせ暇なので、最近作ったものや過去に作ったものをアップしていきたいと思います。
とりあえず、近々ハロウィンやクリスマスなどが控えているので、宅飲みをやるときによく作る、ローストビーフです。写真は去年のおうちクリスマス。ワイン以外はオール手作り(いま思うと午前中部活やった後によく頑張って作ったな笑)。
作り方はいたって簡単。絶対に失敗しません。
①牛ブロックを買ってくる
②コンソメ・赤ワイン・すりおろし玉ねぎ・ニンニク・胡椒・塩をテキトーに混ぜて漬け込みタレを作る。
③ブロック肉にフォークで何か所も穴をあけて、②に1時間くらい漬け込む。
④180℃のオーブンで15~20分程度(中まで火が通るとおいしくないので、途中で切り込みを入れて見ながら)焼く→肉は完成。
⑤フライパンにバターを溶かし、ザルで漉した②のタレを煮立たせ、生クリームと醤油でタレを作る。
⑥にかければ完成。
テキトーに作れるのに、料理が上手に見えるからお得です。自分で作ると、外で高い金払ってペラペラのローストビーフ食べるのがあほらしくなりますね。
焼き立て、厚切り、ジューシーなローストビーフが好きなだけ食べれます。ぜひお試しあれ。